梅津研究室の大歴史


2002年度-H14年度
H14年度 M2の明田川氏、M1の3人、そして学部生4人。私の広げた研究分野を、各自がそれぞれに
伸ばしてくれました。忙しさはますばかりですが、充実しています。
この年、4月、株式会社環境技術研究所の取締役になりました。
そして終わったこともありました。

2001年度-H13年度
共同研究仲間の明田川さんが私の初の大学院生となりました。そして、宮田石灰栃岡木村という
大変バイタリティの高い卒業研究生に恵まれました。
「蛍の生涯観察飼育箱」の商品化を実施しました。

2000年度-H12年度
前橋工科大学となっての初の卒業研究生がきました。新井西内渡辺松井そして古関。
私の第3ステップの始まりでした。それは、卒業研究生と一緒に開発をするという
スタイルであり、また、Webを活用し一人一人ホームページを持つことでした。
STCとの陸上海水魚飼育が始まりました。

Spokon Institute in 1999 before

前橋市立工業短期大学時代の卒業研究生

1999年度-H11年度
とうとう、卒業研究生が一人もいなくなりました。しかし、この年はおかげで、もくもくと研究が
進みました。余りにもたくさん、やっていたので、よく覚えていませんが、屋上緑化も、ロックの下水処理場での
実験も、そう、九州にも、大蔵省印刷局にも、三保ランドも、このへんだと思うなあ。内田がきたのも、このあたりかな?
いや?次の年かな?この春に始まったのです。

1998年度-H10年度
蛍の生涯観察飼育箱の第一号が完成し、この年、10月に年を越さない秋の蛍が出生しました。
そして、脱窒装置ができて、グッピー2000が完成しました。裕子がCAD勉強に来てたなあ。
H10の暮れにアンザイさんと中小企業振興公社もの、「蛍小屋」を当てたんだなあ。

さて短期大学、ほとんど最後の卒業生です。

左は滝川先生の卒研生だった由美子さん。んで、久美。

1997年度-H09年度
前橋工科大学の始まりです。水環境問題に着手しました。私の研究の第2ステップです。
グッピーを飼って、源氏蛍、平家蛍、屋上に気象観測装置、炭素繊維。
新しい、研究の世界がはじまりました。そう、ソーラースティルを一生懸命つくったけ。

吉田裕子、えーとんーと、市役所行った・・・んーと(すまん)、山口、んで、羽鳥

1996年度-H08
そうすると、この年は、金杉かな?

えーと・・・・・
あっちゃん。でー
それから・・・
金杉で・・・・
あー
うー
んーむむむむむ。全然、覚えていない。すまん。なんかむちゃくちゃ薄い・・・・

1995年度-H07
つゆちゃんかなあ、この年は。

そう、太田さん(広瀬郵便局長さん)
で、大森に、石飛真輝、つゆちゃん(吉沢たったような気がする)、で、
えーと、井田だ。
うーんと、
ああ??????
いや、ほんとに、すまん。思い出したら、書くからね。

1994年度-H06年度
前橋市立工業短期大学が、改組で昼夜開講制となり、昼間主コースなるものと遭遇しました。
改組なんて言葉は、この騒ぎで始めてききましたっけ。
松本の次だから櫻井の代かな。

上から、そう、タマちゃん。(金子。今は千明だけど・・・)で、さんぺい(えーと・・・・)。武藤、千明、佐々木、かっちゃん(大久保)
下で、みえこさん(苗字は忘れた)、桜井晴彦、で、浅見(っていう漢字だったかなあ?) あと、女の子が一人いたなあ。
あ、あ、?あから始まったような・・・・

1993年度-H05年度

平成5年度 梅津研究室卒業生  斎藤   小笠原    松本   南雲

小笠原南雲そして松本、とあと一人、えーと・・・斎藤だ!みんな優秀な卒研生でしたが、
あまりめんどうみれなかったです。
秋からドイツはダルムシュタット大学に在外研究員として赴任しまた。半年間、海外で暮らす経験が
できてよかったです。そして、この時にハノーファーでホルツ先生とアーノルドに与えられた課題は
後に、松本の博士号を取得するテーマとなったのです。

1992年度-H04

平成4年度 2代目梅津研究室卒業生 三橋(渡辺)   小島   篠原   寺澤

2年目の卒業研究生は、また、バラエティに富んでました。寺沢渡辺篠原そして小島邦子さん。
いま、皆さんはどこでどうしているでしょうか。

1991年度-
H03年4月前橋市立工業短期大学専任講師となりました。講師でしたので直に卒業研究も持つことになり、
森田氏(年上)と田口という学生が、私の初の卒業研究生になってくれました。
当時私が自前で持ってきたPC9821Ra2が短大全体で、もっとも高速なPCでした。
森田氏は無理矢理「有限要素法による段波の解析」をやらされ、
田口は、「トラスの構造解析」なるものを課題としました。
16bitのHDDの無いPCで、RAMディスクだけの世界、数値演算プロセッサによる高速化、
そんな機材で、私はアニメーション技法の研究をしていましたっけ。

H03年度 梅津研究室 初代卒業生      森田幹夫           田口 勉

森田さんに、田口君は、いまどうしてるかなあ。
そして、この年、松本純一は、1年生にいたのです。私と彼の運命的な出会いでした。

1990年度-D3 H02年度
H03年3月中央大博士課程修了 博士号授与:きわめて長きにわたる学生の身分からさようならでした。

1989年度-D2 H01年度
おそらく、私の人生の中で、もっともつらい時期であったと思います。
よくは思い出せませんが、とてもつらい時期でした。

1988年度-D1S62年度
この年、私は研究者として生きて行く決断と、そして学術会ではおそらくもう2度とこないであろう、
栄冠を手にしました。国際会議で表彰されたからです。ツインケビッチ教授よりいただいた、
ベニスの写真集は、今でも写真とともに飾っています。
でもそれは、学会というグループの中だけの、出来事だと、数年先に気づくのです。

1987年度-プータロ  S61年度は、決断後れの博士課程受験生となってしまいまして、プータロです。
人生とんとんとは進みませんね。でもこの時は、畑中といっしょで楽しかったですね。

1986年度-M2
修士を終了後、山形の実家に帰るつもりでした。親父の後を継ぎ、梅津組に入社も決まっていました。
まったく、人生というものは、わからないものです。
私は、いつのまにか(実際はいつのまにかではありませんが、)
博士課程に進むことになってしまいました。

1985年度-M1
S60年4月、大学院に入学しました。中央大学大学院博士課程前期課程理工学研究科土木工学専攻
なんて、長いんでしょうこの履歴は。

1984年度-S59年度
S60年3月 大学を卒業しました。
一年間アルバイトでしたが、留年した私はスーツを着て御徒町の設計事務所に勤めていました。